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  • 執筆者の写真Hiromi komatsu

「浅田政志 だれかのベストアルバム」水戸芸術館


他人の家族写真を見る事がそんなに面白いのかと思っていたけど、「浅田家」には初めから爆笑した。家族が一丸となって本気で変装し、なりきっているのがまず凄いと思ったし、この一家族の微笑ましさを見ていると「家族」というものの持っている普遍的なかけがえのなさが切々と時間を掛けて伝わってくる。まったく心温まる写真と文章の数々。


そして人は家族という単位を基本として外の世界へ次々に繋がってゆく。

自分の家族だけでなく、他の家族やそれぞれの大事な絆と触れ合う事でそれもまた、愛おしいと思えること。世界が広がってゆくという事はこういう事なんだろうと思う。

それが、写真やアルバムという形でうまく具体的に実現されている。

その過程で家族も次々に変化してゆくし、自分も新しい事にどんどん気付いていく状況が手に取るように分かるし、共鳴を感じる。


そのかけがえのない繋がりはSNSやYouTubeなどのデジタルでなく、確実に自分の手の中に経験としてあったものだし、一人一人の切実な宝物だろう。

そして、人がこの世に生を受けてまずはじめに出会う他者が家族という自分の歴史の最先端の人だという事に喜びと責任を感じる。


ただ、家族は変貌するものだ。

増えたり減ったり、時には壊れたりもする。色々な不幸な形も残酷な形も時にはある。

それでも、自分が誰かから生まれて誰かに育てられたという事実はかろうじて残る。

そして家族は血縁だけではなくて自分にとって大切な人と言い換える事も出来る。


以前に遺伝子操作で最初に生まれた羊のドリーがあんなにも孤独で哀しく思えたのは彼が誕生した理由が意図的だったからだと思い付く。

連綿と続く人の営みの大きな樹形の中で、未来の人類を思う時、そこにリアルな血と温もりだけはなんとか続いてほしいと思う。


家族のアルバム。以前はそんな当たり前にどこの家庭にもあったものが、今思うと確かに少なくなってきているのか。改めて自分も作りたくなってきた。

ただ、私の場合はちょっと色々込み入っているが・・・



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