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執筆者の写真Hiromi komatsu

更新日:2023年2月23日


家にみんなが来るというので駅まで迎えに行った。

家族全員父母姉兄その他親戚も大勢来ている。

折角だからちょっと海の方を回って歩いて行こうという事になった。

道は入り組んでいて他にも人がゾロゾロ歩いている。まるで祭りのようだ。

私は最後尾で目の見えない父親と一緒に歩いていたのだが、父親を誘導しながらみんなとずいぶん離れて遅れてしまい、気がつくとはぐれていた。


海は見えるが道は段差が多く、勾配が激しい。人家が立ち並ぶ丘の上や急斜面の道を父の手を引きながら苦労して歩いていた。


だいぶ歩いてきて父親も疲れた様子。困った。完全に迷ったなと思った。

スマホを取り出して誰かに連絡しようとしたが番号が一体全体まったくわからない。姪のタマミならスマホを持っているはずと思いあたり、ローマ字で名前を打ち込もうとするがこれも何故かひどく困難である。諦めた。


それでも私と父はお互いに手を取りながら険しい道を進みつづけた。


みんな今頃心配しているだろうな。

私と父が見当たらない事に気付いてさぞかし大騒ぎになっている事だろう、と思った。


道には他にも沢山人が歩いていて、皆同じ方向へ向かっているらしい。とりあえずその列についていく事にした。


だいぶ歩いたところで野原にパイプ椅子がずらっと並べてあって順番に座った。野外映画みたいな感じ。そんなの見ている場合じゃないが、そこで少し休みながらまたしてもスマホに挑戦。ダメだ。父親は「なんだ、ダメなのか」と呟いている。


しばらくすると目の前に電車が止まった。よかった。これで帰れるよと父親に言って急いで乗り込もうとすると目の前でドアが閉まってしまう。慌てて父親を前に出してドアをこぶしで叩くと、申し訳なさそうに列車の扉はスルスルと開いた。

よかったと安堵。


列車の窓から外を見るとどうやら思っていた路線ではなく、小田急線を横断して走っているようだ。

いったいこれは何線だろう。向ヶ丘辺りにきているのかと思っていたが随分と違うようだ。まるでモノレールのように高いところを走っている。新しく出来た路線だろうか?


降りたところは駅ではなく、人家や畑のある辺境な場所であった。乗っていた人々は一斉にこの先にある駅に向かうらしい。皆またしても足早にまるでマラソンをしているみたいにぞろぞろと山の上から早足で旋回していく。

私はとてもその列に追いつけないと思い下を見ると、少し頑張って畑を突っ切って坂を行けばショウトカット出来るかもと思いついた。ちょっと見てくるから待っていてと父親をその場に待たせて畑を下りて見てみると、大丈夫頑張れば行けそうだ。戻って父親を誘導する。途中、木の枝が邪魔したが、注意して避けて何とか下の道に降りた。


さっきの人々はもうすでに見当たらなかったが、その先に橋があって、向こうから今度は学生達が大勢走ってきた。私はまたしても父親を前に出してそこに入り込むと何とか抜けようとした。父親はその人達はどんな服装をしているの?と問うので、青いジャージだよ。と私は答えた。確かにみんな中学生のような青のジャージを着ていたが体格は大学生のように大きい。みんな避けてくれて何とかそこも通過する。


次に着いたところは、何故かトンネルの入り口で切符切りみたいな人が立っていた。グズグズしているうちに父親がさっさと中へ入ってしまった。慌てて追いかけて中へ入るとそこは真っ暗で、薄気味悪くもなんだか少しユーモラスな仮面がズラリしていて、変な音楽もかかっていてまるでお化け屋敷。あー、これじゃ何にも見えないよー、と思いながら何となく目が覚めて、この夢、いつまでも見ていられるなと何だか呑気に笑った。


そして、先に行ってしまった親戚達ももしかして、心配しているどころか、あっちはあっちでどこかに迷い込んでいて慌てているのかもしれないなとも思った。



   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



前の晩、昔、目の不自由な父が何か失敗をする度に胸が締め付けられる思いがしたことを思い出していた。

でも、夢の中の父は本人同様、飄としていてどこかおかしみのある存在でもあった。


「見えるなき鏡の前に立ちており 口をへの字に曲げてみもする」

生前の父親の短歌である。


この世は案外ユーモアと滑稽によって均整を保っているのかもしれない。




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執筆者の写真Hiromi komatsu

両親が離婚し、母親と暮らしている13歳の少年にとって、その最愛の母が癌に侵され次第に死を予感させられてゆくという現実を受け入れてゆくことなど、なんと難しいことだろう。その悲しみと恐怖におののき、抗いながら、少年はそれを恐ろしくも一縷の望みを託す怪物と対峙するという方法で自分の心に向き合おうとした。特に愛する人を失うということの時間の中に蓄積されていくどうしようもないやり場のない感情を整理できないまま、あらゆる思いや理不尽さや矛盾に押しつぶされそうになりながらも、時に激しく咆哮し、破壊と暴力に姿を変えてでも必死に何かを知ろうとする姿は熱く胸に迫るものがあり、息が苦しくなるような痛みがリアルに伝わってもきた。

それは原作者のシヴォーン・ダウドが実際に癌でなくなる前に書き残していたものをパトリック・ネスが意志を次いで作品に仕上げたこと、また訳者の池田真紀子の力量によるところも大きいのではないか思う。


少年が毎晩見る悪夢や迫りくる怪物の出現というシチュエーションは一見、ホラーファンタジーのようだが、まったくそうではない。物語というものが作者の現実からかけ離れたものではなく、心の中の目に見えないものに耳を澄ましたり、それが色や形として現われてくるからこそ、そこに本当の物語がうまれる瞬間があるのだと思う。


この作品は2011年の青少年読書感想文全国コンクールの中学生の課題図書だったが、今、大人が読んでも十分に深く読み応えのあるものだ。人の持つ多様な感情や想像力の洪水の中で、良くも悪くもそのすべてが自分や他人も形作っているということを改めて認識しうる物語になっていると思う。

それは原作者の遺言のようにも受け止められるのだ。



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執筆者の写真Hiromi komatsu

他人の家族写真を見る事がそんなに面白いのかと思っていたけど、「浅田家」には初めから爆笑した。家族が一丸となって本気で変装し、なりきっているのがまず凄いと思ったし、この一家族の微笑ましさを見ていると「家族」というものの持っている普遍的なかけがえのなさが切々と時間を掛けて伝わってくる。まったく心温まる写真と文章の数々。


そして人は家族という単位を基本として外の世界へ次々に繋がってゆく。

自分の家族だけでなく、他の家族やそれぞれの大事な絆と触れ合う事でそれもまた、愛おしいと思えること。世界が広がってゆくという事はこういう事なんだろうと思う。

それが、写真やアルバムという形でうまく具体的に実現されている。

その過程で家族も次々に変化してゆくし、自分も新しい事にどんどん気付いていく状況が手に取るように分かるし、共鳴を感じる。


そのかけがえのない繋がりはSNSやYouTubeなどのデジタルでなく、確実に自分の手の中に経験としてあったものだし、一人一人の切実な宝物だろう。

そして、人がこの世に生を受けてまずはじめに出会う他者が家族という自分の歴史の最先端の人だという事に喜びと責任を感じる。


ただ、家族は変貌するものだ。

増えたり減ったり、時には壊れたりもする。色々な不幸な形も残酷な形も時にはある。

それでも、自分が誰かから生まれて誰かに育てられたという事実はかろうじて残る。

そして家族は血縁だけではなくて自分にとって大切な人と言い換える事も出来る。


以前に遺伝子操作で最初に生まれた羊のドリーがあんなにも孤独で哀しく思えたのは彼が誕生した理由が意図的だったからだと思い付く。

連綿と続く人の営みの大きな樹形の中で、未来の人類を思う時、そこにリアルな血と温もりだけはなんとか続いてほしいと思う。


家族のアルバム。以前はそんな当たり前にどこの家庭にもあったものが、今思うと確かに少なくなってきているのか。改めて自分も作りたくなってきた。

ただ、私の場合はちょっと色々込み入っているが・・・



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