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執筆者の写真Hiromi komatsu

泥と砂

少し前に息子が沼のような中に沈んでいってしまう夢を見た。

夢の中ではまだ幼い息子が、雨の中をぎこちなくどこかにつかまりながら歩いていたのだが、急に泥たまりに足を取られ、なぜかあっという間にその中にブクブクと沈んでいったのだ。

私はあわてて駆け寄り、素手で必死に泥を搔きわけ救出しようとするが、すでに子供の頭は泥の中に埋もれてしまった。早く、早くしないと死んでしまう! 焦りながらいくらやっても泥が粘土のように固く締まっていくばかり。私は大声を上げて助けを求めた。あらん限りの動物のような声を張り上げ必死で何度も叫んだ。

「助けてー! 助けてー! 誰かー、助けてー!! 」


その時の恐怖と不安は今思い出しても胸が痛くなる。

うなされていたらしい私は、目覚めてからもしばらくはドキドキして悲しかった。夢だったということに安堵はしても、夢の中の子供はもう死んでしまったのだという恐ろしい気持ちがぐるぐると回っていた。


今、ウクライナで起こっていること。どれだけの人々がこんな恐怖と悲しみを現実に抱いているのだろう。それは夢なんかではなく、近親者の死や苦悩がどれだけの痛みを伴って人々の胸に突き刺さるものか、それを経験した人にしかわからないのかもしれない。それでも、想像することは出来る。もしも、そこに居るのが自分だったら、腕の中に血まみれの我が子を抱いているとしたら…。戦争はそんな個人には目を向けず、空の上から爆弾を落とすというミッションを繰り返す。そして、戦争は悲しみを憎しみにも変える。

もうたくさんだという思いと自分の無力感の中で、いったいどんな絵が描けるというのだろう。そして、絵を描くことにどんな意味があるというのだろうという気持ちが今の自分に筆を握らせないでいる。



外は晴れている。

梅が咲き始め、穏やかな風に洗濯物が揺れている。

春はもうすぐここにやって来て草花が芽吹き、小さな生き物がもぞもぞと活発に動き始めるだろう。

私は空を見上げて陽の光に感謝するだろう。

今年は庭に何の野菜を植えようか、珈琲カスで肥料を作ってみようかなどと考えるかもしれない。


それはとても不思議なことだ。

同じ空の下でパラレルワールドのように行ったり来たりする。この世界は正義感や政治経済の流用する現実と呼ばれる場所と、もう一つ自分の中の真実の場所がある。

でもそれは分断されていなくて、地続きのようで、でも繋がっているかと言えばそうとも言えず、同時に声を上げても違う言葉で、手を伸ばして掴もうとすると形を失い、うまく伝えられなくて伝わったと思うそばから逃げてゆく、そんな不思議な場所に私は立っている。


そう思うことでしか今の自分を支える言葉がない。


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